大事な先輩が・・・
先月亡くなった
今から約35年前
当時の広島ケントス時代は
バンドが2つあった
ムーンバード
そして俺が所属していた
ラッキーリップスというバンド
そのムーンバードのドラムでバンドリーダーだった先輩が亡くなった
ごっつい絞られ鍛えられたよのぉ
じゃけつまらんのよ
ちゃんと叩かんと
なんしょんや
へたくそか
どうなっとんや
健吾あれよ~の ハートで叩かんと
前頭葉で聞けえや
うねりがないんよの
ビートがつまらん
重たいのぉ
走ってないのぉ
とまあ まだまだあるが
こんな感じで咤激励罵倒されて育った
こがあに色々言われたけど
なんか憎めん人じゃった
同じことをしたくないと思い
違う練習方法をやったりもしながら
反抗してみたこともあったが
最終的にはいろいろ教わり面倒見てもらった
そもそも何故このバンドに入ったかというと・・・
ゴールデンウイークの真っ只中
先輩と広島ケントスへ初めて遊びに行った日
当時の店長から声を掛けられた
「雰囲気あるけどオーディション受けてみない?」
「え?もしかして今日ですか?」
「パートは?」
「ドラムです」
「本当に??じゃあ 受けてみようよ!
今日プロデューサーも来ているし」
てな軽い感じで急遽オーディションを受けることになった
そもそも俺はオーディション受けまくって落ちていたのである
宇都宮ケントスオープン時
岡山県ケントス
博多ケントス
何を今更雰囲気でオーディション?!
って思いながらも
「まあ 楽しんで叩こうかね」
って感じで営業が終わってからオーディションを受けた
その時のバンドがムーンバードで
俺のドラムを見て判断したのが
その亡くなった先輩とプロデューサー
「まあ粗削りじゃがえかろうて
これから楽しみなかもしれん
なんせリーゼントがええよの」
なんて言われて一発合格
心の中でガッツポーズをしたのを覚えとる
ま 後々分かるんじゃが切羽詰まった状態じゃったらしい
なにせ前任が覚せい剤で捕まっちゃったからである
早いことドラムを見つけないと
その亡くなった先輩がずっと
掛け持ちで叩かないといけんことになる
そりゃさすがにしんどい
俺はというと 完全に舞い上がっとったが
冷静に落ち着いたふりをしとった
「いつから来れる?
今給料いくらもらってる?」
「まじか!?早いなぁ」
と思いつつも気持ちは固まっとったが
「明日連絡します」
と言ってその日は帰った
そして
就職していたので
翌日すぐに社長、副社長に辞めることを伝えると・・・
「え?本当に?受かったの?
ま 仕方ないか オーディションは受け続けるって
言うてたし それでもいいから うちへ来いって
言ったもんな おめでとう!!
しかし嵐のようなヤツじゃの(笑)
いつの間にか苗字は変わってるし(笑)
辞めるいうたらほんまに辞めよるし(笑)」
と言って 受け入れてくれてめでたく
その日で退社となった
就職1か月で辞めた
あり得ない
でもデビューしてまもなく
みんなで来てくれた
めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えとる
色んな方に世話になって
バンドという職業に付けた
元々徳山市の小さなライブハウスで演奏していた
その時出逢った人達が後押ししてくれたお蔭で
その道へ行けることになった
人生何がきっかけでどう変わるか分からん
今もまさにそう!
うちの梶原恵から相談が無かったら
この慧一之水と出会うことはなかった
2か月は正直迷った
やったことがない通販の仕事
そしてどこにでもある水
(現実はとんでもない水だった)
と思っていた
確かにマーケティングはずっと勉強してきた
ブログも毎日書き続けてた
じゃが成功させる確証はどこにもない
本当にこの水が広がるか??
良いものも悪いものも売り方ひとつ
昔のインチキ臭い雑誌の裏の広告
黄色い財布や数珠
あれはよく作り上げられていた
ま そんなこんなを考えた挙句の今
仕組みや売り方 広告は非常に大事
ユニクロの柳井社長はチラシは絶対に自分で
考えるしマーケティングも自分でやるらしい
そこだけは譲らないっていうてました
そりゃそうですよね
そこが一番肝
もっともっと頑張らんといけんね
結果はまだまだじゃが
これからじゃと思うとる
じゃ今日はお線香あげに行ってきます
先輩 育ててくれてありがとうございました