慧一之水 えいちのみず

太田博士の独り言9 慧一之水

私が技術開発のバトンを受けたのは、まさにこういう状況だったのです。

私は専門的に電気や化学の専門教育を受けた事もなく全て一からの勉強でした。

ましてや電気分解技術はまだ確立している学問でもありません。

まだまだ分からないことが多すぎる学問といってよいでしょう。

分かっているのは全体の10%以下、いや1%以下なのかもわかりません。そんな中での研究です。

 

そして一人です。

資金的に支援があったとしてもスムーズに開発が進むとは到底思えない状況だったのです。

それでも3年後には食塩を除く方法を見つけ何とか試作へと持ち込みました。

正確には完全に無塩化できたのではなく100ppm(従来の1/10)まで落とすことができたというのが現状でした。それでも当時は画期的なものだったのです。

 

そんな中、塩野社長、高橋君が相次いで旅立っていかれ、気が付くと目の前にあったのは5000万円以上の突然の借金でした。一度は立ち尽くしましたが妻の強い後押しもあり半年かけてこれらを処理しました。

その結果、家もなくなり様々な記録(結婚写真やそれまでの私の歴史等)も消え、そして、家族とは離れ離れに暮らすことを余儀なくされました。

今でも娘達に言われます。

勿論今は半分冗談ですが「学校に行くときには家があったのに、帰ったらなかった。」そういわれると心にグサッと来ます。なかなか免疫はできませんね。

 

その後約1年間車での生活を余儀なくされました。

所謂ホームレスです。車での生活は夏は暑さと蚊との戦い。

冬は寒さとの戦いです。でも、今までの私の生涯で一番ものを考えられた時間でした。

 

「どうしたら食塩を完全に抜けるのか」、「不要な片側の水を出さない方法とは」、「生成量を格段に上げる方法とは」、「純水を使わなくてよい方法とは」、「安全で多くの機能を持たせるための要因とは」等々を車の中で毎日毎晩考えました。

 

そんな中、ストレスがたたったのか、急に心臓が痛み出し体を横にできなくなりました。病院に行くお金もなく、健康保険証もないため車の中でじっとしているより手がありませんでした。

「もうこれまでか」と思ったとき車の中に以前、河川の浄化作業に行ったときにいただいた「薬石」の存在に気が付きました。それを水で溶き心臓の周辺にたっぷり塗りました。

3日間はほとんど効果は無いようでしたが、4日目には少し歩けるようになり、体を横にすることができるようになりました。所謂「心不全」だったのです。

 

財布には4000円も入っていないので、何もできませんでしたが、少し動けるようになってからそのお金を持って東京の塩野義製薬を訪ね、以前の担当者に面談を申し込みました。彼は私の状況を察し、会社としては何も出来ないが塩野義が全国の病院に入れた350台の機械のうち関東周辺の機械の撤去とメンテナンスが行えるようにと手配をしてくれました。

 

当時はまだ小泉内閣の医療改革の前であり5万円未満であれば病院経理課から現金でもらえるシステムだったので本当に助かりました。これによりホームレスをしながらでも生活が少しづつ戻り、家族にも少し仕送りできるようになって行きました。

 

そうした中、現在の構造の装置が頭の中に突然生まれたのです。これを今、私たちは「片側電解一方吐出方式」と呼称していますが、それは頭の中で突然閃いたものだったのです。この方式を取ればすべての問題点を一度で解決できる。そう思い頭の中で何度も何度も繰り返しテストをするたび革新に変わっていったのです。

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