太田博士の独り言6 慧一之水
そんな背景があり、塩野社長は極めて大きな危機感を抱いたのです。
このまま何もしなければ日本人は近い将来アメリカによって「薬漬け」にされてしまうという恐怖感だったのです。
しかし、現在の姿を塩野社長が見たらなんと言うでしょうか?
国の保険予算が40兆円以上の現実は彼が想像し考えていた以上のものとなっているのではないでしょうか?
それでは何故、彼は欧米、特にアメリカから入ってくる大量な化学薬剤に対抗するため「電解電子水」を用いようとしたのでしょう?
私が知っている限り彼はこの「電解電子水」と「漢方薬」をもって戦おうとしていました。
しかし、その時はまだ「漢方薬」の研究は開発に入ったばかりの状況であったためここでの説明は省こうと思います。
そもそも「電解電子水」とは一体何なんでしょうか?
それを説明する多くの資料が先の大戦の東京空襲で焼けてしまい、今はただ伝わっていることのみしか紹介できません。(特にこの時代の資料がの残っていないのです。)そして、この本質を理解している人もどんどん少なくなっています。現在では私も含め2、3名だと思います。
今から約40年ほど前はこのものは「強電解水」とか「超電解水」と言われていました。そして、この研究を旭硝子」「塩野義製薬」「新日鉄」「TDK」といった大きな企業が本気で続けていたのです。それはなぜかと言いますと古い文献にその治癒効果が載っていたこと。また、戦前には医薬品として認可され多くの治療成果が報告されていたからなのです。
この原型は今から250年ほど前にオランダから持ち込まれた「エレキテル」にあるというのが正しいのではないかと思います。「エレキテル」の正式な名称はラテン語のElektriciteit(エレキテリシテイト)と言い電流という意味です。オランダのラムンセンの発明で日本では平賀源内という学者が研究を続けていたとの文献が残っています。この装置は電気を作りそれをガラス管の中に蓄電しその電気を患者の患部に当て電気で治療するというものでした。
特にヨーロッパから入ってきたコレラや梅毒の治療に高い効果を示したとの記述が残っています。しかし、思ったほどうまく電気が作れず、蓄電できなかったため1日に1人ほどしか治療できなかったようです。しかし、日本人のすごいところはそこからなのです。
様々な改良を重ね、今から150年ほど前には佐久間象山によってこの「エレキテル」は電池式になり(バッテリー式)1日に3人〜4人を治療できるまでになっていました。戦前のものは佐久間象山型の電池式でしたが、戦後すぐに諏訪方季(すわみちすえ)博士が電気分解法を採用し、そこから製造できる電気量、蓄電効率が一気に上がり現在に至っているのです。
諏訪博士が考案し生成した水は中国の農業と医療の神様の名前を取ってシンノウル(神農王留)と呼ばれていました。今から60年ほど前の話です。そしてこの技術が塩野義製薬や新日鉄の技術につながるのです。
私が最初にこの技術に出会ったのは今から36年前です。そのころの機械装置は食塩水(0.1から0.2%程)を直接電気で分解をするという方法をとっていた為、食塩がそのまま残留するという欠陥を持っていたのでした。
そして、その能力も今の電解電子機能水の1/50程度であり3日ほどしか蓄電できないものでした。
それでも水の中に蓄電するなんてそれまでの常識を完全に覆すものでした。
水の中に電気を蓄電できるのですよ。
普通誰が考え付きますか・・・。