太田博士の独り言4 慧一之水
その事に、塩野義製薬の塩野社長は大きな危機感を持ちメーカーが今後ばらばらで研究開発をしてはいけないとし、当時研究を続けていた「旭硝子」「新日鉄」「TDK」と協議しオールジャパンとして共同で開発に入ることとしたのです。
残念な事にそうしたことも長続きせず、有力政治家による圧力により1社また1社と、この研究から外れ最終的には塩野義製薬だけが残っていきました。
平成8年ごろの話です。
当時塩野義製薬のメンテナンスを担当していた私たちの会社にも圧力がかかり、毎日のように大臣経験者の政治家やその秘書やその部下達に会社へ入りびたりとなり、社内で研究が全くできない状況となっていたのです。
最終的には塩野社長、高橋君と私と3人で話し合い、私が会社を退職し新しい会社を作り、開発を継続していくことし、資金面でこの2人が私を支えていく事となりました。
先に述べた通りこの時代の機械は食塩水を電気分解し作り上げる方式をとっていたため様々な問題があり、その食塩を排除することから始めなければなりませんでした。
そうしないと農業では塩害によって使えないし、医療面でも多くの制約を受けることとなるのです。
また、何故色々な病気に効果が出るのかそのメカニズムがわからず、その解明も必要になったのです。
それから3年、電解電子水からほとんど塩を抜くことができ、それなりの性能を有する装置が出来上がりました。
理論的にも海外の様々な文献を読むことによって多分こうではないかという推論を立てることができました。
私は医者でもなく医療に従事していたわけでもないために、医療の専門用語を外国語で読むのは極めて大変でしたが何とか理論の基礎を形成することに成功することができました。
その理論は塩野社長にも理解していただいたのでそれほど間違ってはいないだろうと当時思いました。
その理論は今でも私たちの基礎理論として残っております。
そして、次の臨床試験の為の30台の製造に入った時の平成11年に塩野社長が急死したのです。
突然の死で本当に驚きました。