太田博士の独り言 慧一之水
私が電解電子機能水を知ったのは昭和64年1月5日でした。
(平成は1月8日からです。)
正月明けの突然の電話は塩野義製薬の部長さんからで、塩野義製薬が350箇所の病院に「電解電子水生成装置」なるものを設置することになったので、それを取り付け、メンテナンスができる業者を探しているとの事でした。
当時、私は熊本県出身で元警視庁の警察官であった高橋君(高橋大朗君)とメンテナンスアウトソーシングの会社を立ち上げたばかりで、日本全国に10箇所ほどメンテナンスネットワークを持っていただけでした。各地の町の電気屋さんと非常に緩い関係を持ち、これをベースにしたネットワークを組み立てていたのです。
当時はまさか、私たちが天下の塩野義製薬から仕事をもらえるなんて考えてもいませんでした。
何故なら私達よりしっかりとしたネットワークを持つメンテナンス会社が日本にはたくさんあり、最初から私たちのような小さな会社に白羽の矢が立つことなどあり得ないと思っていたからなのです。
しかし、現実には私たちがその仕事を単独で受けることとなり、次の日からその準備に入ることとなりました。契約は大阪本社で行われ、その際、塩野芳彦専務(のちの社長平成2年から11年まで)から何のために「電解電子水生成装置」を展開するのかについて約2時間かけてしっかり説明されました。
要するにこれはアメリカから入ってくる薬剤に対する対抗馬としての位置付けであり、大切な役割を持っているとの事でした。しかし、その時はそんなに大きな使命を持つ仕事とは思わず塩野義製薬から仕事をもらうことができてラッキーという程度だったのです。