太田先生の独り言 ルワンダでの成果2 慧一之水
ルワンダ難民支援活動では陸上自衛隊は旭川の第2後方支援連隊(連隊長神本光伸1等陸佐)が基幹部隊となり総勢260名の部隊を編成しました(医官、看護兵を含む)。
航空自衛隊はC130H輸送機3機と隊員118名で構成され1994年の9月18日に日本を発つこととなりました。閣議決定から5日後の出発でした。
実際には自衛隊は8月、1ヶ月をかけ準備をし大型の貨物は世界最大規模を誇るAn124輸送機を3機をチャーターしケニアのナイロビまで輸送、そこから小分けにした後、航空自衛隊のC130H輸送機に積み替えて宿営地を設置する予定のザイールゴマ空港まで約2時間かけ輸送しました。
航空自衛隊の隊員はナイロビとゴマに分かれ航空機の整備等にあたりました。陸上自衛隊の隊員は3つに分け民間機に分乗しケニアのナイロビまで行き、そこから先程の輸送機でゴマまで移動するという方法をとりました。
それから撤収までの約3か月間、航空自衛隊のC130H輸送機は一日も欠かさずナイロビ〜ゴマ間を一日2往復したのです。ザイールのゴマ市にはギブ湖(ゴマ湖)と呼ばれる湖があり、この湖がザイールの人たちに生活用水を提供しています。そこに突然200万人にも及ぶ難民が押し寄せたのです。
一気に水質は悪くなり伝染病が蔓延しておりました。
一日に600人近くの人が伝染病のコレラで死んでいくという状況だったのです。
ザイールは赤道に近く、朝は10°C、日中は30℃以上になります。
そして、夕方には2〜3時間スコールがあるなど、決して住むのには適していないような場所です。
そして、空中浮遊菌も日本の1000倍ほどあり危険といってよいほどの環境でした。
また、難民と言っても武器を持った難民で所謂「武装難民」です。
その為、いつもザイール軍と小競り合いが続いており、極めて治安の悪いところでもありました。
現に自衛隊が撤収を進めていた12月の20日ごろからザイール軍と武装難民との間で銃撃戦があり60人ほどの死者が出るような状況でした。そんなところへの難民支援です。
そして、政府が自衛隊に許可した武器は拳銃(幹部自衛官のみ)、小銃(全員)、重機関銃1丁、武装指揮者1両です。そのような武器で、どうして自分たちも身を守れるのでしょうか。戦場の中に野戦病院を設営したようなものです。
内閣府HP